ヨモツヘグイ – 最終章 –

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 男は気を失っていた。暗黒の中で目を開く。背中に感触はない。石のような硬さも、絹布団のような柔らかさもない。
永遠に虚空(こくう)を落ち続けるような感覚は、甚(はなは)だ恐ろしい。同時に男の理解の及ばなさで「夢だ……」と零し、思案(しあん)から逃避させ、発狂に至らせずに済んだ。

 ――倒れる寸前に聞こえたのは、障子が力任せに閉められる音だったかも知れない。どうも記憶に自信が持てないのだ。
 あれ程「開くな」と念を押された障子を開き、人魂と思わしきものが飛び交う部屋で、女の全身が蒼白く発光した。そこまでは良い。
「見んしたね」と亡霊の如き声が発せられた刹那――嗚呼、思い出した。確かに障子が閉じられた。業物(わざもの)が、死んだ罪人の脊髄を一刀両断するように、バン、と勢いよく。打ち鳴らされた釣り鐘の内部に居たかのように、轟音(ごうおん)は男の脳内で木霊して、貧血を起こしたように倒れたのであった。

「おい」

 男は声を張り上げながら立ち上がる。地上とも虚空とも知れないのに、両手を地面に付き、身体を持ち上げようとした。空を切る感覚ばかりだが、肘と肩に自重を感じられたから、少なくとも重力と不可視の床はあるようだ。
 起立した男は、またもや不可思議な光と相対する。闇に光の軌跡を描くのは、空漠(くうばく)とした空色や、僧侶の袈裟のような紫色。それを人魂と認めたならば、腰を抜かしていたであろう。しかし男には、極楽浄土の蝶のようにも思えた。
 しばし男は光に見惚れていた。最早、一切合切の疲労もなく。俺はようやく苦しみから解放されたに違いない。今一度、深く息を吐いて解脱(げだつ)の境地を堪能(たんのう)する。


「あなや。確かに申し上げた筈。決して中を覗いてはいけんせん、と」
 突如、例の女の声がした。か細い声であった。男が仰け反るよりも前に、彼の真正面にて女はが徐々に姿を現した。彼女を覆う暗闇と同化した氷が、頭頂部から爪先にかけて溶解するように。やはり女の表情は陰に隠れたままで、最早銀髪と着物のみが闇に浮かんでいるに違いなかった。

「嗚呼、仙女(せんにょ)よ」

 男はなんの悪びれもなく、暗闇で佇む女に近づこうと駆け出す。完全なる有頂天(うちょうてん)だった。女が内に抱いているであろう、失望や憤怒には目を向けない。此処ぞ極楽浄土なりとご満悦な男は、閻魔(えんま)大王の監視を恐れることなく、煩悩のままに突き動く。
 だがしかし。男と女の距離は一向に縮まらない。確かに男の両足は前に進んでいるのだが、その分だけ女が遠ざかっているような。

「生者が黄泉(よみ)の国を覗いたからには、死者の鶴めは主さんと別れなければなりんせん」

 女が辺りを見回すと、暗闇に極彩色(ごくさいしき)の花々が現れた。仏が神速神業で、屏風(びょうぶ)に筆を走らせたように、文字通りの一瞬にて。獲物を見据えた虎もかくやの勢いであった男は、突如足元が断崖絶壁に変貌したかのように、慌てて足を止めた。

「どういうことだ」

 男は眉間に皺を寄せながら訴える。立ち尽くし、左右に目を遣る。徳の高い人の葬儀を執り行う様に、暗闇は絢爛な花々で埋め尽くされていた。
 ややあってから、男は全てを悟って目を見開いた。女は、死者の鶴めとか言ったか。それで理解した。たしかに女の絹のような銀髪は、吹雪で倒れ伏していた鶴の体毛と、全く同じ艶を放っている。

「破滅を希求(ききゅう)する主さんなればこそ、黄泉の食物を召し上がりいただき、見目麗しいままに黄泉に誘おうと考えてやした」

 女が話を続ける。男の怨嗟に耳を貸しているかは怪しい。黄泉の蝶は、女の周囲を飛び交う。回想するならば、あの障子は現世(げんせ)と黄泉の国を隔てる役割を担っていたのかも知れない。
 二の次に、女の背後に門と思わしきものが描かれた。門の先に何があるか。語るまでもなく暗黒であるから、男には想像するしかできない。
 唯一つ合点がいく。鍋に入れられた、乱切りにされた、極彩色に輝く野菜らしき物。現世では見たこともない物体であったが、あの門の先、黄泉の国で採られた食物に違いない。
 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の神話は、男も耳にしたことがある。伊邪那岐は伊邪那美を黄泉の国から連れ戻そうとしたが、「黄泉の国の食物を口にした為に帰れぬ」と拒絶された。伊邪那美の心身が、黄泉の者になってしまったのである。

「黄泉の食物は病人が食べると、吐き出しちまう程に独特の風味故。まずは七日間介抱せねばと思いんしたが。とどのつまり、主さんは未だ生への執着が捨てきれねえのでありんすね」

 細々と女が語る内に、地面から蓮の花が浮かび上がった。地面というよりは水面、水中から浮上した蓮の花であるという論議は、この際どうでも良い。
 男は小刻みに震えていた。ひどく絶望していた。助けた鶴の女に、黄泉の国へ手を引かれた怪談話に依るものでは、断じてない。苦しみと無縁な黄泉の国も、生を享受できる女との暮らしも、あと一歩の所で離れゆくのだから。

「俺は、俺は」

 男は自らの優柔不断さを呪った。死に様さえ満足に選べない、半端者の末路としては相応しい。そう自嘲せずにはいられなかった。
 蓮の花は艶やかに発光している。暗闇の水面に浮かぶそれらは、灯篭流(とうろうなが)しを彷彿とさせる。

「まことに口惜しゅうござりんす。せめて最後のおもてなしを致しんしょう」

 女は言いながら、両手をお椀のようにした。女の足元から、新たな蓮の花が浮上する。水面を離れ、女の手の高さまで尚も浮上する。
 暗闇が照らされ、周囲の様子が鮮明に見えた。宙に浮かぶ花々は、壁の神秘的な文様(もんよう)であった判明する。蓮の花が浮かぶ水面の正体は床であった。現世と黄泉の国の狭間にある門。
 やがて、蓮の花の一つが女の両手に収まる――かと思いきや、男の方へ飛来する。男には避けることも、受け取ることもできない。金縛りのように、指の一本すら動かせないからだ。
 男の心臓の鼓動が、別の意味で早まった。やり場のない絶望が昂ぶりに移り変わる。蓮の紅色の花弁が、女の口紅のように見えた。そう思い込もうと、逃避していたのかも知れない。
 と、男の口元にて蓮が止まった刹那。蓮の花から、後光のような幾千もの光が、四方八方に解き放たれる。その内、男の方角に放たれた光の筋に、身体を貫かれた。

「うっ」

 氷柱で刺されたように鋭く冷たい痛みが、降り注ぐ驟雨(しゅうう)のように男を襲う。刺された無数の点々から、血が流れたような生温い感覚が。どくどくと己の身体を伝う液体の感覚に絶頂を覚える。
 成程。狂乱した人間が自らを嬲(なぶ)る所以(ゆえん)を理解できた。削ぎ落した肉、流れ出た血、これらが何よりも一時的に男の生を実感させてくれる。天地が逆転するほどに視界が揺れる男には、幼少の時分に食べた不味い粥さえ、御馳走であったかのように想起する。これが走馬灯だと言うのか。

「それでは、わっちは異国に旅立ちんす。死に瀕して尚、吹雪に倒れ伏す鶴を救う程に温かく。回生(かいせい)して尚、生の欲求に惑わされねえ程に冷たい、真の主さんを求めるが故に」
 女の声で、男は現実へと引き戻された。床は消え、男と女を分断するように、万華鏡のように妖艶な虚像が巡り巡る。現世と黄泉の国を隔てる、三途の川の如し。
 その向こうで、女は背を見せていた。僅かだけ見返り、有るかも定かではない片目で男を見る。

「おい。おい」
 男は辛うじて発声だけはできた。怒号、懇願、悲鳴、断末魔。ありとあらゆる意味にも解釈できる声で、歩き出した女の足を止めようとする。
 されど、女は遠ざかるのみ。門の向こう側、暗闇だった空間には、灯篭が道標石(どうひょうせき)のように二列に並ぶ。女はその中心を歩いていく。
 思うに、鶴女は脚に凍傷を負っていたから、男と居る間は牛歩の歩みしかできなかったのであろう。今は見る見る内に女の姿が小さくなり、すぐに銀髪だけが点となってしまった。

 雪が舞う。黄泉の国の境内で、開いた傘が宙吊りのようになって、道行く女を雪から守る。
 男の睫毛にも雪が付着する。視界が徐々に白で塗りたくられる。頬や手の甲にも雪は付着していたと思うが、最早あらゆる情緒と無縁である。

  ◆  ◆  ◆

 覚醒した。視界が真っ白に染められた直後であった。
 男は仰向けになっていた。布団の上ではなく、畳の上にて。掛け布団がないと気が付いた途端、冷気を思い出し身体が小刻みに震えだす。

「やはり夢」

 男は身体を起こし、畳の間を見回す。障子から差し込む微かな光は爽快である。体内のしこりはすっかり消え失せ、代わるように至福感が血のように駆け巡る。「俺は女と一夜を過ごしたに違いない。男気を見せたのは当たりであった」と、男はほくそ笑む。

「おい、いるか」

 男は殿様のように振舞った。耳を済ませるが、囲炉裏で炭が爆ぜる音は聞こえない。囲炉裏の間とを隔てる障子をしばし見つめた後、ふと視界の真下に何かが置かれていることに気付く。憶えのない折り鶴が二つ、畳に置かれている。
 男は胡坐をかいたままで両手を伸ばした。右手で小さい子鶴を、左手で大きな親鶴を。人肌のような温もりが、男の手に伝わる。さっきまで誰かが握っていたように、僅かな熱が残っている。蓮の花のような、ふわりと優しい香りもする。

「俺の子」

 男は無意識に口走った。夢心地から抜け出せない男は、己が寝惚(ねぼ)けているやもと疑問にも思わない。ならば親鶴の正体は、あの女の化身だろう。今一度抱くにしては、体躯が小さいのが悔やまれるが。人間が駄目なら、せめて美しい氷の鶴であっても良い。

 コーッ。コーッ。鶴の一声が背後より響く。すかさず顧みると、独りでに外界に通じる障子が開かれていた。立ち上がり、障子の縁に両手を置きながら外を見遣る。
 嗚呼、あの日助けた氷の鶴が飛び上がっていく。この狭間の地を包囲する、連なる雪山よりも更なる高みに。降り積もった雪よりも灰色な、曇り空へと紛れていく。目指す先は、黄泉の国か、異国の雪山か、男には知る由(よし)もない。

 男は絶句していた。思わず伸ばした手は、氷の鶴が消えても尚、引き戻せずにいた。男が女との約束を破ってからの一連の出来事が、夢か現(うつつ)かはこの際どうでもよい。あの氷の鶴と着物の女が正真正銘の同一であるかは、むしろ議論を放棄して妄信していたい。
 男は一人、現世に取り残された。中途半端に生き残ってしまった。先立たれてしまった。
 雪山に一人。帰る道も分からない。このまま世捨て人として暮らす覚悟も、みずぼらしく生き残る知恵と体力もない。

「……ヨモツヘグイ」

 そこで男は、妙案を思いついた。女の尻を追い掛けるように、大慌てで畳の間と、囲炉裏の間を隔てる障子を力任せに開く。ドタン、と鉄槌で骨を砕くような音が響く。
 囲炉裏の火は消えていた。しかしながら、鍋の蓋を開くと、極彩色に輝く何かが汁に沈んでいた。冷えてはいるが、食えぬ訳ではない。「いざ口にせん」と腹を括ろうとしたが、毒茸のような色合いに肝が冷えてしまう。
 真に黄泉の食物であるか、はたまた劇毒でコロリと逝ってしまうか、何(いず)れにせよ――。

     
記事を書いたライター

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